財津 和夫(ざいつ かずお、1948年2月19日- )は、福岡県福岡市出身。日本のフォークシンガー、作曲家、俳優。フォークグループ「チューリップ」のリーダー・ギタリスト。2004年から大阪芸術大学芸術学部音楽学科教授。血液型O型。小简介1970年代からに活躍しているニューミュージック系フォークグループ「チューリップ」の中心的人物。チューリップのほとんどの楽曲の作詞、作曲を手がけている。*****のチューリップの一時解散以降はソロ音楽活動を中心に活躍。1997年のチューリップ再結成後は、2〜3年に1回の頻度で*アー活動を軸にチューリップとしての活動も展開中。1963年、福岡県立香椎高校に入学。高校時代にビートルズに憧れ、独学でギターを学んだ。1966年に同高校を卒業。翌年、西南学院大学法学部に入学(のちに中退)するが、浪人中にはビートルズの武道館コンサート見たさに上京し、観賞したという逸話もある。大学に入学すると、同級生の吉田彰と共に和製ビートルズを目指して、1969年、チューリップの前身となる「フォーシンガーズ」を結成。1971年、バンド名を「チューリップ」に改名する。のちに海援隊や甲斐バンド、井上陽水などを生んだ博多の伝説的音楽喫茶「照和」でライブ活動を展開し、人気を博すが、デビューを志し、上京。当時、ビートルズのレコードを手がけていた東芝音工(現EMIミュージック・ジャパン)に自らデモテープを売り込み、1972年、東芝EMIよりシングル『魔法の**い靴』でレコードデビューを果たす。同年、アルバム『魔法の**い靴』、翌年、2枚目のシングルとアルバムをリリースするも売れない日々が続いたが、3枚目のシングル『心の旅』(1973年)が発売5ヵ月後にオリコンチャート第1位を獲得。連日のようにテレビ音楽番組に出演するなど、一躍スターダムにのし上がる。その後も自身がボーカルをとった『青春の影』(1974年)、『サボテンの花』(1975年)、『虹とスニーカーの頃』(1979年)など、昭和を代表する名曲を次々と生み出したが、メンバーの脱退・加入を繰り返したのち、チューリップは*****に一時解散したが1997年に再結成。チューリップとしての活動と平行してソロでの音楽活動も展開、1978年にソロデビューを果たしている。同年、NHK番組「みんなのうた」に採用された『切手のないおくりもの』は、のちに小学校の音楽科の授業で使用される歌集などにも掲載され、国民的愛唱歌として25年を経た現在も広く歌い継がれている。1979年には、2枚目のシングル『wake up』がテレビCMに起用されるなどヒットチャートを賑わせた。また、ソロ音楽活動と同時に、作曲家として木之内みどり、松田聖子、沢田知可子、藤井フミヤなど多くのアーティストに楽曲を提供(松田と藤井は同郷出身)。『チェリーブラッサム』(1981年)から『白いパラソル』(1981年)まで作曲した連続3作品(いずれもオリコンチャート第1位獲得)は、アイドル松田聖子の人気を不動にする一端を担っている。1986年には音楽番組『財津和夫のPOPS探偵団』(フジテレビ)で司会を担当。1975年からパーソナリティを務めたラジオ番組「財津和夫の人生ゲーム」(東海ラジオ)は1988年3月に終了するまで13年間続いた長寿番組になった。同番組は2001年に「財津和夫の人生ゲーム21〜心の旅〜」として再スタート、現在に至る。2008年、チューリップメンバーは、NHKの企画で「Tulip 青春のラストラン」に出演した。同番組は、35年間の歴史に終止符を打ったチ ューリップの軌跡をたどるものであった。その際に、「財津さんにとって青春って何ですか? 」という質問に対し、財津は「ウ~ン。難しいですね、その質問は。記憶がない。がむしゃらに東京に向かってたんで。なんか、青春時代をおうかしてたつもりもなければ思い出作ろうと思ったこともなければ。。。チューリップが青春なんですよ。ずっとチューリップ漬けでやってきて、さっきも言いましたけど青春時代を思い出せないといいましたけれども。チューリップの中にいたんで青春時代があったかどうかも分からないし。それでなんかそれが*アーが終わるとなるとね、ま、青春の決別=チューリップの決別=青春の決別=チューリップの決別にみたいになるんじゃないでしょうかね。今は、なんだか惜しいな、もっと続けたいなという気持ちもありますね」とコメントを残した。つのだ☆ひろとは、上京して以来の友人。つのだは、たまたま見たデビュー前のチューリップに魅了され、プライベートで付き合うことになった。当時、財津がチューリップのメンバーと共同生活をしていた南青山のアパートにつのだはよく出入りをしていた。